ビルマの中国軍について

李偉成

 日本軍のビルマ侵攻は、欧米からの中国への支援ルートであった「援蒋」ビルマルートを遮断することが主眼に置かれていた。これは主として第15軍によって1942年1月に始められ、同年5月にはビルマに駐屯していた英印中の連合軍はほぼ完全にビルマ領から駆逐された。一方、ビルマに駐屯していたスティルウェル中将の指揮する中国軍は、一部はインドに、一部はビルマルートに沿って雲南省に退却した。このようにビルマルートが遮断されるとアメリカは南部ヒマラヤ越えの空輸ルートを開拓したが、空輸では物資の輸送に限度があるため、インドのレドから北ビルマを突っ切る新しい陸上補給路の必要が認められるようになった。このスティルウェル中将が主張してきた新ビルマルートは次第に「レド公路」として現実味を帯びるようになった。
 その実現のためのスティルウェルの計画は次のようなものであった。雲南省各地でアメリカ式の武器と訓練によって編成された約30個師(師団)[Y部隊]を雲南から北ビルマに進出させ、同時にインドに退却した中国兵をビハール州ラムガルーで再訓練し、その部隊[X部隊]をインドから北ビルマに進撃させて、両部隊の進撃速度に合わせて「レド公路」を建設する、すなわち、東西から北ビルマの日本軍を圧迫して撃退し、両部隊が握手すれば補給路が完成するという作戦であった。インドのラムガルーではビルマから退却してきた約9000人の中国兵に加えて約23000人が中国から空輸され、訓練の結果、1943年3月には2個師(師団)、3個砲兵団(連隊)、1個工兵団(連隊)などが編成され、このX部隊は新編中国軍と呼ばれた。さらに雲南省に戻って訓練指導にあたる要員約1500人の教育も行われた。最終的に約70000人の中国兵がラムガルーで訓練され、新編第1軍と新編第6軍が編成された。一方、雲南省でのY部隊の編成と訓練は遅々として進まず、1943年4月にようやく昆明を中心に訓練所が設置された。このY部隊は雲南遠征軍と呼ばれ、16個師(師団)を擁していたが、定員充足率は60%ほどで兵力は約72000人であった。



[地図の地名一覧]  1.インパール 2.レド 3.ニンビン 4.シブカイン 5.タパンガ 6.カマイン 7.ミイトキーナ 8.バーモ 9.ナンカン 10.ワンチン(腕町) 11.芒市 12.龍陵 13.拉孟 14.騰越 15.保山 16.昆明 17.ラシオ 18.マンダレー

 ローズヴェルト米大統領とチャーチル英首相による1943年1月のカサブランカ会談の取り決めに従って、1943年10月30日に新編第1軍はビルマ・インド国境地帯のニンビンを攻撃し、8ヵ月にわたる「フーコン谷の戦い」が始まった。この予想された進撃に対して日本軍は主として第18師団(菊兵団)を防衛にあてた。北ビルマに進撃した部隊は中国軍新編第1軍と米軍第5307混成連隊(通称ガラハット部隊、一般にはメリルズ=マローダーズとして有名)であり、12月末には新編第1軍第38師114団などの活躍によりユパンガで第18師団56連隊を主力とする日本軍を撃退した。その際、新編中国軍は連合軍の最新の戦法である「リング・ディフェンス・システム」を用いた。すなわち、拠点となる地域を確保したら、円陣に防衛ラインを構築し、外に向かって火砲を打ち、弾薬・食糧の補給は円陣内に空輸させるという方法である。この戦法は効を奏し、2月にはタイパガを新編第1軍第22師が占領した。しかし、日本軍の頑強な抵抗のため、中国軍側の損害も大きく、補充兵力としてラムガルーでの訓練が終了したばかりの第30師と中国から空輸された第50師と第14師の3個師団により新編第6軍が編成され、新編第1軍とともに進撃を始めた。また、4月末に戦力の半減していた(約3000人→約1400人)米軍第5307混成連隊は新編中国軍の第22師や第30師、第50師の一部の兵員によって戦力を補充した。5月には水上源蔵少将や丸山房安大佐を指揮官とする日本軍第18師団114連隊が守るミイトキーナ(ミチナ)を第30師や第50師を中心に攻撃し、8月に占領した。
 3ヵ月にわたるミイトキーナ攻防戦の最中、8月初旬に大将に昇進していたスティルウェルであったが、ミイトキーナ攻略の喜びも束の間の10月中旬に蒋介石によって中国軍司令官を罷免された。後任として中国方面の米軍司令官兼中国軍参謀長にウェデマイヤー中将が任命され、またビルマ方面の米軍と中国軍の司令官にスルタン中将が任命された。
 一方、雲南遠征軍はカサブランカ会談の取り決めでは1943年11月中旬に進撃開始を予定されていたが、蒋介石は中国本土での日本軍の攻勢を理由に雲南遠征軍の北ビルマ派遣を渋っていた。しかし、ローズヴェルト米大統領の再三の要請に折れて、1944年4月に出動命令を下し、これに基づいて5月11日に衛立煌大将を司令官とする雲南遠征軍は怒江(サルウィン川上流の中国名)を渡河した。この地域を守備していた日本軍は第56師団(龍兵団)を主とする部隊であった。雲南遠征軍の6月初旬の攻撃は失敗に終わったが、7月上旬には怒江に架かるつり橋「恵通橋」が開通して後方からの補給が円滑になされるようになり、本格的な攻撃が各地で展開されるようになった。金光恵次郎少佐を指揮官とする第56師団113連隊の一部などが守備する拉孟は、6月半ばに第11集団軍第71軍新編第28師と第11集団軍第6軍新編第39師によって攻撃された。守備隊の抵抗により7月に両部隊が消耗し、交替戦力として第8軍の栄誉第1師が投入され、さらに7月下旬には同じく第8軍の第82師と第103師が雲南省の昆明から派遣された。その結果、9月7日に拉孟は占領された。また、騰越は、蔵重康美大佐を指揮官とする第56師団148連隊を中心に守備されていたが、6月末から第20集団軍第53軍第116師、第20集団軍第54軍第36師、第11集団軍第6軍予備第2師の攻撃を受け、さらに8月には第20集団軍第54軍第198師の増援を受けた結果、9月14日に占領された。さらに龍陵は7月半ばから第11集団軍第71軍新編第28師、第11集団軍第71軍第87師、第8軍栄誉第1師、第11集団軍第6軍新編第39師の攻撃を受けたが、日本軍は各地での玉砕・撤退が続くなかで第56師団の主力や第2師団(勇兵団)や第53師団(安兵団)の一部が龍陵に集まっていた。
 しばらくの間、北ビルマの米中軍は東西から「レド公路」の整備に専念していたが、雲南遠征軍は10月末に進撃を再開して11月初旬に龍陵を占領し、さらに11月下旬には芒市を攻略し、ビルマ領内のワンチン(腕町)に兵力を進めた。一方、10月初めにスティルウェルにより中国軍第一の有能な指揮官とみなされていた孫立人少将が、第38師長としての実績から抜擢された。彼を司令官とする新編第1軍の第38師と第22師が、米軍の475歩兵連隊や124騎兵連隊などとともに、11月初旬にミイトキーナを出発して12月半ばには日本軍第2師団第2連隊が守備するバーモを攻略し、ナンカンに迫った。
 1945年1月半ばに第18師団第55連隊など日本軍守備隊はナンカンを放棄し、1月下旬についにX部隊の新編中国軍とY部隊の雲南遠征軍が「レド公路」上で握手をし、X部隊を代表して新編中国軍新編第1軍第38師とY部隊を代表して雲南遠征軍第20集団軍第53軍第116師が合流式典を行った。合流したビルマの中国軍はアラウンパヤー朝の古都マンダレーへと兵を進めた。

【1】新編中国軍新編第1軍第38師兵士
 新編中国軍の兵士は一見すると1942年頃のシンガポールや北アフリカの英軍のように明るいカーキ色の野戦服と奏備品を着装していた。一方、当時の英印軍はジャングルグリーンと呼ばれる濃い緑褐色の野戦服を着ており、装備品もジャングルグリーンや黒に染めたものを使用していた。 再現写真へ

弟38師胸章(推定図)
ヘルメット:英軍のMkヘルメットか米軍のM1ヘルメット
軍帽:基本的に薄い木綿や麻製の独軍規格帽型
カーキドリル(以下KD)生地やエアーテックス生地で製作されたものもあったと思われる
上衣:英軍のエアーテックス生地のバトルブラウス型、英軍のKDシャツ、4つポケットのブッシュシャツなど
ズボン:英軍のKDズボン(左大腿部前部にポケットのあるもの)、KDショーツ
:中国製の布靴、英軍の布短靴や革編上靴、米軍の革編上靴、中国製のわらじ、裸足
ゲートル:かなりしっかりしたウール製(米軍の毛布から製作か?)、木綿製など多種多様
装備品類:英軍P37装備(インド製)、スモールパックを雑嚢代わりに使用、背嚢としてラージパックを使用。ユニヴァーサルポーチでなくエンフィールド用の2列弾入れも多用
火器類:スプリングフィールドM1903、トンプソンM1928、M1カービン、M1ガーランド、中正式(モーゼル小銃)各種エンフィールド小銃など、銃剣はそれらに準じたもの
徽章類:軍帽に金属性青天白日章 左胸ポケット上に布製胸章(付けていないものも多い、縫い付けるか安全ピンで留める) 両襟に階級章(式典以外では高級将校を除いてほとんど付けていない、ピン留め式が多く、大半が金属製かプラスティック製)


【2】雲南遠征軍第20集団軍第53軍第116師兵士
 一般的な国民党系の中国軍兵士とほぼ同じ軍装である。高級将校を除いてウール製の衣服を身体に付けていることは稀であり、大半が緑褐色か茶褐色の木綿の衣服であった。また、冬は木綿製の綿入れを着ていた。中国軍兵士は捕獲した日本軍の装備(雑嚢、水筒、鉄帽などが多い。ところが、外套などを除いて衣服はほとんど見られない)を愛用しているものが多いが、これはやはり歴戦の勇士に見せる小道具として使っていると考えてよいのだろうか。 再現写真1へ 再現写真2へ
ヘルメット:独製のM35もしくは中国製の独軍型ヘルメット、米軍のM1917ヘルメット 正面に青天白日章の付いた日本軍の90式鉄帽、サクラヘルメットによく似た中国製ヘルメットなど
軍帽:基本的に薄い木綿や麻製の独軍規格帽型、イラストのような形態も多い
上衣:木綿や麻製のイラストのような4つポケット型
ズボン:木綿や麻製のストレートズボン
:中国製の布靴、英軍の布短靴や革編上靴、米軍の革編上靴、日本軍の革編上靴、中国製のわらじ、裸足
ゲートル:ウール製(日本軍のものに類似)、木綿製など多種多様
装備品類:革製ベルト(日本軍のものに類似)、布製ベルトなど多種多様、水筒は中国軍独自のもの 背嚢は毛布や布団などを組合せたもので背負うための紐は多分米袋を兼用
火器類:中正式(モーゼル小銃)トンプソンM1928、三八式歩兵銃など、銃剣はそれらに準じたもの
徽章類:軍帽に金属性または布製青天白日章 左胸ポケット上に布製胸章(縫い付けるか安全ピンで留める) 両襟に階級章(式典以外では高級将校を除いてほとんど付けていない、ピン留め式が多く、大半が金属製かプラスティック製)


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1997/09/05