極東共和国人民革命軍の軍装は
どういうものだったのか?

ワレンチン・ヴェノーフ

1917年の10月革命後、帝政派の軍人や社会革命党などが指導する反革命軍が横行し、ロシア国内各地で反革命政権が樹立されました。革命の拡大をおそれたイギリス・アメリカ・フランス・日本などの連合軍は、反革命政権を援助しただけでなく、直接軍隊を派遣してシベリアなどロシア各地を占領して、干渉戦争に乗り出しました。ソヴィエト政府はこれに対抗するために労農赤軍を組織しました。外国軍の干渉はロシアの民衆をソヴィエト政権支持に向かわせ、その支持をもって労農赤軍は徐々に反革命軍を圧倒し、その結果、1920年までにイギリス・アメリカ・フランスなどの外国軍は撤退することになりました。
東部戦線の労農赤軍部隊は、コルチャーク提督の率いる反革命軍を粉砕し、バイカル湖付近にまで進出し、1920年の3月にイルクーツクに入りました。しかし、最後までただ一国で広大なロシア極東地域の軍事的占領を続けていた日本軍との衝突を警戒して、労農赤軍部隊はイルクーツク以東には前進しませんでした。日本との軍事衝突を避けるためにソヴィエト政府は、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の監督下にありながらも別個のものである、極東共和国という臨時的な緩衝国の創設をめざし、この構想は1920年10月6日のプリバイカル「勤労者・パルチザン」代表大会での創設宣言で達成されました。
労農赤軍と日本軍との直接衝突を避けるためには、極東共和国の軍隊が労農赤軍であることは不都合であり、極東共和国自体の軍隊が必要とされ、人民革命軍という名称が考案されました。この人民革命軍は、各地域のパルチザン部隊やソヴィエト権力側に寝返った元コルチャーク軍兵士を中心に1920年1月に編成されていた、労農赤軍東シベリア軍を母体として形成されました。この労農赤軍東シベリア軍は3月11日にはプリバイカル人民革命軍と改称され、さらに4月半ばにはザバイカル人民革命軍と改称されていました。そして、5月半ばにはすでに極東共和国人民革命軍[НРА ДВР]という名称で呼ばれるようになりました。
極東共和国の内部にはザバイカル軍管区とプリアムール軍管区の2つの軍管区が創設されました。人民革命軍の編成は、内戦の勝利の進展に応じて、しだいに変化していきました。1920年11月1日の人民革命軍は、第1アムール・第2アムール・第1イルクーツク・第2イルクーツクの4つの銃兵師団、アムール騎兵旅団、ザバイカル騎兵師団から編成され、総員40,800名で構成されていました。1921年5月1日には、第1チタ・第2ヴェルフネウヂンスク・第3アムール・第4ブラゴヴェシチェンスクの4つの銃兵師団、ザバイカル騎兵師団、第1トロイツコサフスク・第2スレチェンスク・第3ハバロフスクの3つの騎兵旅団に編成が変わり、総員も36,100名とわずかに減少しました。さらに1921年10月1日には、人民革命軍の編成は3つの銃兵師団、1つの騎兵師団となり、総員19,800名と削減されました。この削減の背景としては第一に内戦の終結が挙げられます。
その後、1922年に日本軍が撤退すると極東共和国の存在理由はなくなり、その領域はロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国に編入され、同様に存在理由のなくなった人民革命軍も1922年12月16日付の共和国革命軍事評議会指令によって労農赤軍第5軍に編入されることになりました。
この2年余りにわたって存在した短命な人民革命軍ですが、次にこの人民革命軍の軍装について説明していきたいと思います。

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