ジョン・ハートフィールド
John Heartfield
ドイツ 写真家 画家 1891/06/19-1968/04/26
本名ヘルムート・ヘルツフェルトHelmut Herzfeld
経 第1次大戦中に弟とともに創立したマリク社で表紙絵・装丁などに従事、大戦後共産党入党、同時にベルリン・ダダに参加、フォトモンタージュの新技法を駆使し、ナチス台頭後も風刺を続けた。1933年国外追放となり1938年イギリスに亡命、1950年東ドイツに帰る。

現代人名情報事典(平凡社1987)より


写真大事典(Kodak・講談社昭和60第2刷)よりハートフィールドに関する記述の部分を抜粋すると、(「モンタージュ写真」の項目より)

●ハートフィールド―社会風刺
このようなダダの傾向と技法に影響を受けたドイツのハートフィールドは、さらに写真自体の持つ訴求力に着目し、社会や政治を風刺するフォトモンタージュの誕生となった。この風刺の傾向は、当時、ナチスドイツの社会・政治を痛烈に風刺して有名であった画家のグロッスの影響によるもので、この両者の協同によって社会風刺の型として、フォトモンタージュのひとつの表現が確立したといえよう。グロッスがハートフィールドのことをモントウール(組立て屋)と呼んだことから、フォトモンタージュの名称が一般的になった。
ハートフィールドは、写真を自分では撮影しなかったふが、デザイナーとして優れた想像力を持っていたために、新聞や雑誌で見たものをこまかく記憶していて、これを集めてイメージを確立していったのである。このように彼のモンタージュの素材としてひろいあげられる写真は、単に外界を写しとっている映像というだけでなく、新聞なり雑誌なりによって、社会的な回路を経てきたものであった。このように社会的な意味を付与されきた事物であることがひとつの力となり、ダダ本来の中ではこれが否定的な働きとなるが、彼のばあいは、そこに説得力を見い出す結果ともなった。社会や政治批判の内容を持った訴求力、伝達能力は、写真のルポルタージュ性と結びつき、大衆への意識喚起の手段となったことが特徴であった。
ハートフィールドは、このように攻撃的なフォトモンタージュの方向を作りあげたが、フォトモンタージュの〈目に映ずる世界の向こう側に真実がある〉とする精神は、ダダのあとを継ぐシュールレアリズムの中に受け入れられることになる。
/(澤本玲子)


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