ハッロ・シュルツェ・ボイゼン



解説:BIMOクラブ「O同志」

1909年9月2日 キール生まれ。法学科卒、ジャーナリスト、空軍パイロットのち帝国航空の報道中尉、1941年からソ連の諜報員になる。1942年8月31日ゲシュタポにより逮捕。12月22日処刑された。

ボイゼンは中産階級の両親の元に生まれた。
父は海軍中佐  ものごころ付く頃から大衆のために奉仕するという人道的理念をたたき込まれた彼はその後、市民で作られた「ドイツ青年愛国結社」にのめり込んでいく。

ファシズムが政権掌握する直前、仲間と共に雑誌「反論者」を刊行。
1933年、その間ボイゼンは法学生としてベルリン東部に住み始める。
彼はここで労働者の生活向上のためにいかに戦うことが出来るかを学ぶ。
33年4月。ゲシュタポは「反論者」の編集関係者を次々と逮捕。
ハッロを含め、全員残虐な拷問を受けた。抵抗した一部の仲間は容赦なくその場で殴り殺された。
父親が高級将校であったおかげで、航空学校に通うことを条件に保護観察付で再びゲシュタポの追跡から解放される。
講習課程を優秀な成績で終えたハッロはその後、帝国航空省に入り、空軍中尉まで上り詰める。パイロットとして卓越した才能をを発揮する彼は空軍元帥ゲーリングの目に止まり、かわいがられた。

ゲシュタポのおぞましいまでの拷問を体験した彼はこの時からファシスト政権と戦う闘争心が芽生えはじめる。

持ち前の愛国心と情熱で少しずつ同志を増やしていく。料理人のヴァルター、クッピそして共産主義リーダー達との接触を深めていった。第二次世界大戦の前にハッロは科学者ハーナック博士と共にヒットラー政権打倒をスローガンに一つの巨大レジスタンスグループ「赤い礼拝堂」を結成し博士と共にグループを引っ張る。

ゲーリングの信頼を得ていたハッロは航空省内部奥深くまで入り込み、貴重な情報を収集。そしてまもなく独ソ戦が始まる事を知る彼はソ連のために、あらゆる情報を提供して支援するようになる。第二次世界大戦初年にはかなり大きなレジスタンス組織に成長していた「赤い礼拝堂」には社会混乱の中、無党派、労働運動代表者、共産主義者、社会民主主義者など思想の違いを乗り越え「反ファシスト」の名のもとにおいて最大規模の地下活動を展開する。  

ハッロとハーナック博士の同友達は 航空省、宣伝部、帝国経済省人種政策局、帝国労働保護局、軍最高司令部、海軍など主要箇所の人間と綿密に接触し始め、極秘情報を入手していく。
そして作家、芸術家、外交官、将校、ジャーナリスト、教授、医師などありとあらゆる分野の人間が「赤い礼拝堂」のメンバーになっていった。
ファシスト政権打倒のためにはどうしてもソ連を援護しなければならず、ヒットラー政権の軍事計画を随時繊細にソ連側へ知らせる。

ハッロは41年以来 ドイツ空軍がソ連の各都市爆撃のために空軍力を増強している事、大量殺戮用科学兵器を使用する可能性の高いこと等、繁栄にソ連側へ伝達し続ける。 

ヒットラー政権を失脚させるために「赤い礼拝堂」は”国内戦線”というプロパガンダ雑誌を発行。ハッロを始めジョーングランデンツ ヴィルヘルムグッドーフ、ヴァルターフーゼマン、クックホッフ博士、ジョーンジークその他有名な人物がこの雑誌を執筆する。「国内戦線」は外国人強制労働者(ユダヤ人)やソ連軍捕虜になったドイツ兵をも巻き込み共闘戦線化していく。
また、最前線で戦っているドイツ軍兵士に軍事郵便にて連日のように手紙を送りつけ「この犯罪的戦争の無意味さ。ファシスト政権打倒への協力」を説く。
国内では、あらゆるメンバーが、反ファシスト宣伝のチラシをばらまいた。
ハッロは妻の協力で固い決心と大胆なまでの行動力を彼はいつ果てることなく展開していく。
妻リベァ−タスは1933年から35年の間、ベルリン、メトロゴールドウィン、マイヤー映画会社の報道助手として働いていた。
その後「エッセン ナショナル新聞」の記者。そして最後に芸術派よりであるドイツ文化映画センターで国土、民族を中心に取材する専門担当者となる。この地位を利用し、取材で各地を訪れる度に彼女は他のレジスタンスグループと接触。情報交換の任務を果たした。

1942年8月31日


組織内部に紛れ込んでいたゲシュタポによってハッロは逮捕され数日後、彼の妻リベァータスも逮捕される。その翌月には多くのメンバーがゲシュタポの手に落ちた。数カ月のち、帝国軍事法廷はハッロやハーナック博士を先頭に「赤い礼拝堂」メンバー50人以上に死刑判決を下した。 

1942年12月19日、彼はこれまでのプロセスを実直に振り返っている。
以下は独房に書き残されていた遺書である 

"Der Stunde Ernst will fragen: Hat es sich auch gelohnt?
An dir ist,s nun zu sagen: Doch! Es war die rechte Front!"

          厳粛は思考を糺す

         求めた価値などあったのか?

       時よ ならばおまえに語ろうではないか

         無論! 大儀なる戦いだったさ

1942年12月22日

ハッロとリベァータスはベルリン・プレッツェン湖刑務所の処刑場へと運び込まれた。
労働者ハンス・コッピ、記者ジョーン・グラオデンツ、科学者アーフィート・ハーナック博士、無線通信士ホァースト・ハイルマン、大使館参事官ルドールフ・フォン シェリーア、労働者クァート・シュールツェ、芸術家夫婦エリザベスとクァート・シューマッヒャー、それと記者イルーゼ・シュテーベ等も同日処刑された。
彼らの生涯はドイツ民族をファシスト帝国主義の束縛から解放するために全てを捧げたものだった。


この解説はMfSのメダルという理由から旧東独 与党SED(ドイツ社会主義統一党)監修、1970年マルクス、レーニン研究所から刊行された。

DEUTSCHE WIDERSTANDSKMPER 1933-1945より一部抜粋して翻訳したものである。したがって文章中、帝国主義、ファシストという文字が5行に一回は使われており、いい加減うんざりした。

それと、最初に訳した文章を全体通じて読み返してみると、彼らがいかに社会主義のために貢献したかをヒューマニズムっぽい論調で書かれているのでそういった部分は必要ないと判断し、省いてしまった。

今回このストーリーに関してはハッロ シュールツェボイゼンだけに焦点を絞ってしまったが、"Rote Kapelle"「赤い礼拝堂」のもう一人の中心人物であった

科学者ハーナック アーフィートもかなりの活動家であった一人である。

時間とリストという限られたスペースである都合上、ダイジェストとしてしか紹介出来ないのが残念である。ベルリン州立図書館に保管されてる旧西ドイツ側政府刊行物の中にもこの事件に関する記録が驚くほど充実している。

主観的に記されてないので歴史的観点を知る上ではこちらの方が質の高い記録書である。現在こちらを調べてる最中なので、ある程度まとまったらこのメダルを所有された方には中間報告がてらに後日お知らせしたい。

それと、彼らの歩んだ生涯を小説化出来たらと私は切に願っている。文才の無い私にはとうてい無理だが、せめてこのテーマ(ドイツ人レジスタンス)に関しては今年からずっと追い続け、今では歴史上の人物となってしまった一人一人の素顔を解き明かしていくつもりである。また、日本でレジスタンスグループ「赤い礼拝堂」に関する出版物があれば是非知らせていただきたい。(共産党本部あたりに山積みされてるかも)

ところで、彼らが処刑されたゲシュタポのプレッツェン湖刑務所は旧西ベルリン側にあり見た所、今でも使われてるんではなかろうか。その脇に小さな記念堂が立っている。私は帰国する前日(1月11日)に訪れたのだが、この日は大雪に見舞われたため人っ子一人おらずシーンと静まりかえっていた。気温はマイナス5度なのに何となくその日は空気が穏やかに感じた、というのも、その一週間前までは日中でさえ連日マイナス12度以下。夜中になると、マイナス20度以下というモスクワ並の極寒がずっと続いたのだ。ちなみに昨年の大晦日。
私は連れと一緒に行き付けの飲み屋で新年を迎えたのだが、この時はなんとマイナス25度だった。
それにもかかわずロケット花火と爆竹で新年を祝うドンチャン騒ぎが夜中3時過ぎまでベルリンじゅう止むこと無く続いた。

ちなみにここの処刑方法は”ギロチン”だった。

ドイツ語でレジスタンスをWiederstand(ヴィーダーシュタ-ント)と言うが当時他にもたくさんの地下組織があった。中でもハンス ショル率いたミュンヒェン大の学生組織 ”Weiァe Rose”(白いバラ)が有名である。


解説:BIMOクラブ「O同志」


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