風見章(あきら)

1886年2月12日〜1961年12月20日 政治家。茨城県生まれ。
1909(明42)年早大政治学科卒。在学中、中野正剛、緒方竹虎と親交を結ぶ。
証券会社や東京市に勤務した後ジャーナリズムに入り、「大阪朝日新聞」「国際通信」記者などを経て23(大12)年から「信濃毎日新聞」の主筆。
在任中、「信毎」の社説は普選運動や山一製糸争議(27年)を支援した。
28(昭3)年。衆院選(初の普選)に茨城3区から立候補するも落選。
30年初当選し、以来4回連続当選。最初立憲民主党に所属したが、31年脱党し32年には安達謙蔵の国民同盟に参加。37年第一次近衛内閣の書記長に起用され、まもなく勃発した日中戦争の不拡大に努めたが失敗。40年5月新体制運動を起こし、同年7月第二次近衛内閣の法相となるが、わずか5ヶ月で辞任。
その後は大政翼賛会総務を努めるが、同会の後退に失望して総務会にも出席せず、42年翼賛選挙にも立候補せず政界をほとんど退いてた。戦後公職追放となるが51年解除され、翌52年総選挙に無所属で立候補し当選、政界に復帰する。
以後連続5回当選、その間左派社会党に入党、同年10月社会党統一とともに同党顧問となる、54年片山哲らと憲法擁護国民連合を結成、原水爆実験禁止決議案の成立に努めるなど護憲運動や平和運動に積極的に取り組んだ。
また、日・中・ソ国交回復国民会議理事長。アジア・アフリカ連帯委員会代表委員として、国際友好運動にも尽力した。
評伝に須田禎一「風見章とその時代」(65年)がある。  

                       (阿部博純)朝日人物辞典より


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