ゾルゲ博士はソ連の平和を守るため1933年日本において重要な情報収集グループを築き上げた。
反ソ的な日本軍国主義に対し、彼らの使命は危険きわまりない地下活動を行い、随時包括的かつ確かな情報をつかむことだった。
グループラムゼイには日本人32人、ドイツ人4人、ユーゴスラヴィア人2人、英国市民1人が加わっている。
彼らの情報収集活動は数限りない重要な成果をもたらした。
日本がソ連に進撃しないという報告は1941年6月22日に始まったファシストの侵略への対抗策としてこれは戦略上最高級の情報であった。
日本軍国主義者達はリヒャルトゾルゲ博士と彼の盟友、尾崎秀美博士に死刑を宣告。
1944年11月7日、大社会主義10月革命記念日に執行された。
選定された日付は、反共産主義勢力のソ連に対する憎悪の現れであった。
生涯、共産主義闘士、ソ連邦英雄の国際労働者諜報部員
平和と人民の未来のためとは今日のアメリカを筆頭とする人類及びNATO から信頼できる確かな安全と社会主義を守る義務をリヒャルトゾルゲ博士は我々に説いている



リヒャルト ゾルゲ 1895〜1944
ドイツの新聞記者・共産主義者 バクー生まれ
第一次大戦に参加。1919年に創立されたドイツ共産党に入る。
1925年モスクワに行き、コミンテル情報局・ソ連共産党で活動。
1930年〜33年”社会学雑誌”特派員として上海で情報活動、”フランクフルターツアイトゥング”特派員として1933年来日、日本で情報活動を組織。 1941年尾崎秀実(ほつみ)らと共に検挙され(ゾルゲ事件)1944年
死刑。 その活動は国際的反戦平和運動の一環であった。
参考資料 ”現代史資料(ゾルゲ事件 1・2・3・24巻)
コンサイス外国人人名辞典より


社会学者、ドイツの新聞記者、ゾルゲ事件の中心人物。南カフカス(現、アゼルバイジャン共和国)生まれ。父アドルフはドイツ人、母ニーナはロシア人。
3才のおり家族とドイツに転居、少青年期をベルリンで過ごす。
ハンブルク大卒。社会学博士。第1次大戦に志願兵として前線へ送られ、3度に渡って
負傷、戦争とは何であるかを実感した。
除隊後独立社会民主党さらにドイツ共産党へ入党、党の情宣活動に従事、「ローザ・ルクセンブルクの資本蓄積論」を出版する。
1924年ドイツ共産党の指令でモスクワへ派遣され、マルクスレーニン研究所に所属、「ドーズ案とその影響」「新ドイツ帝国主義」を刊行、コミンテルンの仕事につく。
中国情勢の緊迫化につれ、中国へ派遣され、上海で尾崎秀実、スメドレーを知る。
33(昭8年)モスクワに帰り、日本派遣が決定、「フランクフルターツアイトゥング」紙の特派員として来日。
ナチス党員としてドイツ大使館の私設情報担当となって活躍、日本の政治、外交、軍事に関する情報の入手、通報に努めた。
その間に書いた論文、通信も多い。41年10月国防保安法、治安維持法、軍機保護法違反で検挙され(ゾルゲ事件)死刑宣告を受け尾崎秀実と共に処刑された。
遺体は戦後になって、愛人の石井花子により多摩墓地に埋葬された。1964年「ソヴィエト連邦英雄」の称号が贈られた。(尾崎 秀樹) 朝日人物辞典より



尾崎秀実 宮城与徳 川合貞吉 西園寺公一 安田徳太郎 伊藤律


共産主義・社会主義・無政府主義 項目別データベース
国際共産趣味青年同盟 赤軍愛好会 赤軍博物館 各部会対話室